深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義11.昔懐かしふるさとの味

11-40.椎の実(しいのみ)

 昭和二桁生まれといっても、10年から64年まであるから、昭和二桁生まれは若いとも年寄りとも言えない。戦後の豊かな時代、昭和30年代以降の昭和二桁生まれの方には、そんな経験はないと思っていたら、その年代生まれの方で、大分県在住の羽石さんから、椎の実拾いをして、炒(い)っていたら、椎の実がはじけて顔に当たり泣きながら食べた日のことを語ってもらった。

 筆者にも、椎の実拾いは、恐怖の思い出として残っている。当時の湯前線の踏切を超えるための近道は、筆者の自宅から、旧岡原村の伊勢元地区を抜け、古多良木に至る道である。踏切を超えて、どれくらい行ったのか、そこが旧須恵村だったのか、はっきりした記憶にないが、そこは、うっそうとした森の中であった。椎の木を探し、深く迷い込んだ森の中に小さな掘立て小屋があった。おそるおそる覗いてみると白髪頭のお婆さんが座っていたのである。椎の実どころではなく明るい方へ一目散に友と駈け逃げた思い出でがそれである。

椎 椎の実 屋台
図1.椎の葉 図2.椎の実 図3.木の実を売る屋台

 図1は、細長い椎の葉、図2は椎の実を示す。椎の木は、九州から本州にかけての照葉樹林の代表的構成種であるが、この木は、狂いが生じやすく、虫食いやすく、割れやすいので材質的な評価が決して高くない木材である。しかし、その実、椎の実は縄文時代からよく食べられていた痕跡がある。鹿児島市上竜尾町の南洲公園の一角にある縄文時代晩期の竪穴住居跡があり、そこから石斧(せきふ:いしおの)や石鏃(せきぞく:やじり)、猪の骨などと一緒に椎の実が出てきている。椎の実に限らず木の実は、古代人にとっては重要な食材であった。時代は下がって、飛鳥時代やなら時代、そのころも椎の実が食材となっていたようで、万葉集には(しい)を詠んだ歌万葉集0142が三首抄録されている。その中の一つを紹介する。

   「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅(たび)にしあらば
(しい)の葉に盛(も)る」 ・・・ 万葉集0142

 意味は、家にいたなら食器に盛って食べるご飯を、草を枕にする旅の途中にあるのでの葉に盛って食べている、である。
本稿の趣意ではないので詳述はさけるが、この有間皇子(ありまのみこ)は18歳で謀反人として処刑されるから、この歌の「旅」は流罪地への旅路である。先の「肥薩線」の「真幸駅」の「真幸」は真の幸のほかに、運よくとか、幸いにとかの意味があるということで、有間皇子の次の歌を紹介した。

「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む」

意味は、磐代の松の枝を結んだ、運よく無事に帰ることができたらまたこれを見よう、である。

 椎の実が子守歌に出てくる例を紹介しよう。島根県鹿足郡吉賀町柿木(しまねけん かのあしぐん よしかちょう かきのき)地区に伝わる子守歌、「ねんねんよ ころりんよ」である。その二番の歌詞に椎の実が出てくる。

      ♪ ねんねんよ ころりんよ
         おととの お山のお兎は なしてお耳が お長いの
 おかかの おなかに いたときに (しい)の実 榧(かや)の実
        食べたそに それで お耳が お長いぞ ねんねんよ ころりんよ ♪

 怪談、「耳なし芳一」などで知られる 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、明治20年頃、島根県隠岐の島の海士町を訪れたとき、この世で一番古い子守歌を聞くことができたと讃えたのがこの歌である。この島では、ウサギの耳が長い訳を「びわの葉やささの葉」を食べたからという歌詞になっている。ところが、島根県でも米子地方では、ウサギの耳の長いのは「びわの葉」を食べたからだとしている。椎の実もビワの葉も笹の葉も、みんな細長いのである。耳の長い訳を、お母さんがいろいろ思い起こしながら子供に歌い聞かせた状況が見えてくる。

& 最後に、今でも椎の実を売る屋台が出るという話である、北九州市の八幡地区は、かの有名な八幡製鉄のあった町である。その創業を記念した祭り「起業祭」が、毎年11月に行われる。その会場に椎の実を売る屋台( 図3、出典:Nissy-KITAQ‐Wikipedia)が出る。炒った椎の実がショケ(*)に一杯、山盛りして店頭に出ている。

*:「ショケ」とは、薩北や宮崎、球磨地方などの方言で、竹で編んだザルです。ソバを盛るザルのように平べったいものではなく、もっと大きく、穀物や野菜などを入れて持ち運びする用具のこと、時には川で魚すくいの用具としても使いました。Instagramで見つかりましたので、ショケにリンクを張ってあります。


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